不満は何か

<反芻思考>

 

答えの出ないことなどをぐるぐると考え続けることを反芻思考というそうだ。

今日は土曜日休日だったが、梅田のベンチで午前3時間ぐらい座りくるくる考え事をしていた。午後は川のそばでキャンプチェアに座り4時間くらい座りくるくる考え事をしていた。
考える内容は主に、どうしたら幸せになれるかだ。

 

しかし、反芻思考はネガティブになる傾向があるので推奨されないらしい。

 

<思考の内容>

反芻思考を避けるため、思考の内容を書き残す。同じことを考えないためだ。
幸福になるとはどういうことを言うのだろうか。

「幸せとは、満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のことをいいます。」

上記のような定義がネット検索から現れた。

不満を消していくことが幸せということか。不満内容を考えたい。

 

<不満>

● 孤独:気の合う家族を作りたいができない。友達はいらないと思う。

● 退屈:余暇は何もやりたいことがない。退屈な時間はつらい。仕事も退屈に感じる。

 

文字で打ち込むとこれくらいしか出てこない。

まあいいかこいつらをどうにかすれば、幸せになれる?

試してみよう。それだけのために生きてみよう。

 

孤独は、コミュにケーションを学ぶ必要がある。誰かに認めてもらわなくてはだめだ。

これが難しい。なぜ認められないかわからない。自分を見つめていても解決しない。人と話すことかな。

 

退屈は、これもわからない。

自意識からの解放

自意識過剰な人間というのは多い。

念のため自意識過剰な人間とは何かGoogleで調べると

自意識過剰とは、自分が他人からどう見られたり、どう思われたりしているかを過敏に気にしてしまうこと

という説明が出てきた。おそらく僕もその中の一人だ。

今、僕には一つ悩み事がある。(一つなんてことはなく、探せば山ほど口に出せるだろうが、重要なのが一つある。)

自分のやりたいことを見つけたい。

やりたいことっていうのは、没頭できる趣味とか、生きがいとなるような夢とかそんな感じのものである。(なんか書いてて自分でもあいまいだなあと思う。)

そのうえで自意識はあまりにも邪魔なのである。

他人からどう思われるかが頭に浮かび、自分がどうしたいかが浮かんでこない。

自意識過剰という言葉は自分に興味がありすぎるような響きをさせているくせに、自分のことが全然わからない。

理不尽だと思う。

いったん自分のやりたいことは「自意識からの解放」だった。

 

自意識過剰が”他人からどう思われるか”を気にすることを指すなら、自己肯定感が低い人が自意識過剰なことが多いのだろう。僕も自己肯定感が低いほうだと思う。

自意識からの解放は、自己肯定感の向上によって達成されるのかもしれない。

(最近自己肯定感って言葉はやってる気がするけどなんでなんだろう。正論が強い風潮と関連しているのかいずれそのあたりも考えたい。)

 

「自意識から解放されるためには自己肯定感を高めればいいのか!」

そう考えるとまだ何をこれから頑張っていけばいいかイメージが付きやすく希望が持てる。手始めにこのブログを毎日書くことを1週間続けてみようかな。達成したら自分のことを少しは好きになれるかもしれない。でも、やっぱり自分を好きになったら、自分のことよく考えるようになると思うんだけど大丈夫?あってんのかな。

 

人の目を気にしないようになりたいなんて思ったのはもちろん今回が初めてではない。これまでも何度も自意識との決別を図ってみたが時間がたてば、自意識のことを嫌っていたことすら忘れて仲良くしている。

現実の友達ならほほえましいとしか思えないが、この件に関しては見過ごしていられない。自意識から解放されたその先にある本当の自分とも仲良くしてみたい。

だから今回ブログを書いてみる。一つの物事はあんまり続けられないほうだけど。

ちょっとでもあがいてみたい。